自己紹介
- 小沢 和史 Kazushi Ozawa
- 〈プロフィール〉映像作家 / 映画...『青空ジュース』1996年 7分 / 『ファールグランド』1999年 22分 /『わらってあげる』1999年 48分 /『IDEEN』2002年 15分 /『人さらいが来ればいいのに』2003年 21分 /『僕は1日で駄目になる』2004年 26分 /『地下の日だまり』2006年 60分 /『ハシッシ・ギャング』2010年 25分(『デルタ 小川国夫原作オムニバス』の一編)/『この身の持ち越し』2014年 36分( 詩:鈴木志郎康)
2012年5月20日日曜日
2012年5月6日日曜日
2010年12月25日土曜日
湯浅学氏 & 倉田めば氏 対談 ー映画「デルタ 小川国夫原作オムニバス」を語るー
大阪では、12/21からの大阪シネ・ヌーヴォー公開を記念し、先行イベントSHELLSONGが12/5にビジュアルアーツ大阪にて開催された。同イベントでは、著述業・音楽評論家で音楽家(湯浅湾)の湯浅学氏と大阪ダルク代表の倉田めば氏にご参加いただき、本映画上映後に小川国夫作品の朗読と対談をしていただいた。
今回はその対談を好き勝手にCut アンドPasteし、“声”の切り抜きをさせていただきましたので、どっぷりCoffee アンド Tasteしてくださいまーしー。
映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』
大阪公開先行イベントSHELLSONG 2010.12/5
対談:湯浅学氏(幻の名盤解放同盟)& 倉田めば氏(大阪ダルク)
ー小川文学、鏡面世界で聞こえる声ー
小川国夫『弱い神』 |
湯浅「もう30年ぐらい前だけど、当時、小川国夫の小説はわりと読まれていましたね。確か片岡義男が紹介してたのがきっかけだったかな。初めて読んだのは『アポロンの島』。今回のイベントに呼ばれて久しぶりにもう一回漁ってみたけども、晩年の小説は面白い。なんだかよく分からない状態になっている。一番最後に出した『弱い神』なんかだと全部が会話で成り立っていて、地の文が無くて、得難い体験ができる。」
めば「私は“小川国夫”という名前は知っていたけども、今回初めて映画の原作となった小説から読んでみました。『マグレブ、誘惑として』を読んでいて思ったのは、言葉によって表現するということには“外に向かう表現”と“自分自身に向かう表現”とそれからもう1つに“語られない、形にならない表現”というのもあるのかなと思いました。」
(左から)湯浅学氏と倉田めば氏 |
湯浅「さっき、短編『キリガミロイ』を朗読していて思ったのは、これは双子の物語だけども実は一人の人間の中で起こっている対話とも読み取れる。二面性であることが実は一面性であるみたいなことかな。自分で自分に問いかけていくと、やがて、自分ともう一人の人とが話しているみたいな気持ちになってくると言うか。
例えば、ジミ・ヘンドリックスは自身が置かれている状況を『鏡面世界の中にいるようだ。鏡だらけの部屋にいるようだ』というふうに言っていたんだよ。それって自己倒壊なんだよね。対話している相手だと思っていたのが、実はそれは自分だったみたいなことでさ、ジミヘンは『そんな状況がずっと続いているから、ここから出して欲しい』っていう救済をファンに言っているんだよ。で、そこを抜け出す術っていうのは結局、自分ではよく分からなくて、分からないから演奏していた節がどうもある。」
ー映画『デルタ』、行方不明ってなんかいいー
映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』 ミニチラシ |
湯浅「この映画では“自分で自分に問いかけている”というところでオムニバス3本のテーマが共通している気がしますね。話し相手は登場するんだけど、相手に問いただすのではなくて、自分に問いかけていたら相手が見えた、という感じ。それって自分勝手ってことかもしれないけどさ。でも、その糸口がなかなか見当たらないから映画になっているのかなと思うよね。
どのオムニバスも行方不明の何かを追っているわけだけども、行方不明っていうのはなんかいいよな。行方不明の人をずっと追いつづけているって実生活ではなかなか難しいでしょ。行方不明ってなんか羨ましいな。」
めば「“行方不明”って言うか“蒸発”ですよね。」
めば「昭和の言葉ですね。この映画の『他界』なんかだと、行方不明の人を探していくうちに探している側の人の意識がどんどん“他界”になっていく、というふうに私は観ましたね。」
湯浅「実ははじめからみんな死人だったりしてね。」
ー創造と破壊ー
めば「ところで“幽霊”と“幻覚”って違うんですよ。私は薬でよく幻覚を見ていたので分かるんです。幽霊も見ていたので。どうも出方に違いがあるんですね。これは、酒井潔『悪魔学大全』に書いてあったのですけど、取材された民俗学者の南方熊楠がその見分け方を言っているんです。幽霊というのは寝ていると枕元に立ってたりするでしょ、出方が直角なんです。でも、幻覚というのは人間に平行して現れる。」
湯浅「ああ、角度が違うんだ。」
めば「私はシンナーが大好きだったんだけど、吸いはじめはぐるぐる部屋が回って夢みたいに平行な感じで、それは幻覚なんです。それがだんだん病気が進行してくると、ある日ぱっと目覚めたら足下に骸骨が直立している。これは幽霊に近い。」
湯浅「混ざっちゃっているんだ。」
めば「で、だいたい幽霊が白黒っぽい。幻覚はカラー。」
湯浅「確かに幻覚のほうは色があるよね。俺は幽霊のほうは経験ないな。要は感覚が違うってことだろうけど。」
めば「『ハシッシ・ギャング』じゃないけども、私も墓場でよく薬物をやっていましたよ。だいたいいつも“橋本家の墓”。そこがいいんです。」
湯浅「ああいうのって場所はあるよね。薬物スポット『お墓』か(笑)。」
オムニバスの一編「ハシッシ・ギャング」のシーン |
めば「映画(ハシッシ・ギャング)に食卓を囲む家族の会話の幻聴が聞こえてくるシーンが聞こえてくるシーンがあるけども、昔、アパートの雨戸を閉め切って薬物をやっていたら、近所に住んでいるお父さんと子どもがキャーキャーお風呂に入ってるのが聞こえてきて、その声は自分にはない究極の幸せだなと思いましたね。私は寂しい人生を送っているんです(笑)」
湯浅「…しかし、とりとめのないドラッグの話ってすごく楽しいですよね。」
めば「それって、すごく意味のあることじゃないかと思います。私はドラッグを止めて回復したって言われてるけども、でも、私にとったらそれは“しらふ”という名のドラッグを見つけたってことだけなんですよ。だって薬物依存に対して私は無力。そこに“しらふ”というまだ使ったことのなかったドラッグが銀紙に包まれていた、カプセルの中にあった、という感覚なんです。だから私は大阪ダルクでは“しらふ”でいかに飛べるかを伝授している(笑)。」
湯浅「あんまり“意味意味”言うのは嫌ですね。今たまたま大学で音楽を教えてるんだけど、学校の音楽って音楽の制度を教えるでしょ。だから、俺は音楽教育と逆のことをやっちゃえと思っている。“不協和音”って言うじゃない。あれは要するに“協調性のない音”ってことなんだけど『じゃあ、その協調性を決めているのはいったい誰なんだ!?』ってことだよね。『いや、俺は決めてないし…』みたいな雰囲気ってあるじゃない。
例えば、アマゾンの山奥のインディオが葦の笛なんかを吹いているのを聞くと協調性なんかまったくないんだけど、そこには演奏者がいるんだからそれだって音楽じゃない。ドレミファソラシドで調整された音楽観を元からあった赤子のオギャーッ!の時点に戻すのってすごく難しいんですよ。」
めば「ああ、それは難しいですね。」
湯浅「だから生徒にはできるだけひどいものをたくさん聴かせようと思ってて…。それをどう捉えるかってことは、ドラッグをどう捉えるかということに結びついていて、ネガとポジは同じなんだって気付けるんじゃないかな。」
めば「私は講演なんかでドラッグについて話すんだけど、今の時代って社会がどんどん統制的、管理的になってきているでしょ。そこで本当に何か伝えようとすると、いろいろお茶を濁しながら発言する技術が必要になってきているんですよ。」
湯浅「もう今の時代は教えるよりも暴れちゃうほうがいいのかもって思う時がある。『もう何だって楽器になっちゃうぞ!』みたいな。」
めば「『破壊は創造の始まりである』という共通認識が無くなってきてますよね。」
湯浅「自己改革って簡単に言うけども、若い子と接していると昔より今のほうがたいへんだろうなと思う。自己変革すればいいってもんでもないけれど、俺が学校で音楽を教えている時にはまずは 黒板に大きく『ハイになれ』とかって書くもん(笑)。それで救われるかは知らないけどさ、とりあえず若者はハイになりなさいと。何でこんなこと書かないといけないのかなって思いながら言ってるんだけどね。でも、ハイになったところから帰ってくるのが一番たいへんですから。」
ー我々は何を聞いているのか?ー
湯浅「この映画はどれも“幻聴”をよく聞いているよね。」
めば「私はドラッグをやっている時、それが幻聴や幻視であるとは思ってなくて、現実だと思い込んでいましたね。」
湯浅「普通『これは幻聴だぞ』なんて思って音は聞いてないよな。これが現実音で、これが非現実音という区別はない。」
めば「ある日、友だちが隣の部屋で私を殺す計画をしているんですよ。だから私は怖くて朝まで身動きがとれずにいたんです。そうしたら夜明け前に神様の声が聞こえてきて『彼らにコップ一杯の水を持って行ったらお前は殺されない』と言うんです。だから明け方の5時に隣でぐーぐー寝てる友だちに水を持って行ってあげたんです。友人は驚いてキョトンとしてました。でも私にとったらそれは殺されないための神様の命令で動いているんです。後になれば明らかにおかしな行為だけど、でも、その時はそれが現実。」
湯浅「それはその時には『これは神の声だ』って思うの?」
めば「思いますね。『あ、これは私を救ってくれる神の声だ』って。まあ、結局それは自分の声なんですけども。でも、人って究極に追い込まれたら、薬をやってる、やってないに関わらず、幻覚や幻聴を投影して生み出してくんじゃないかなとは思いますけど。」
湯浅「映画の音でも『これは現実音』『これは想像した音で、主人公しか聞こえてない』という区別があると面白くないよね。音の価値って全部等価だと思う。音楽だろうと音楽でなかろうと音は音として全部並列にあって、その意味は聞いている人が決めていけばいい。」
めば「音は視覚と一体になって無意識のうちに染み込んでくるけど、“言葉”だとテキストになるからまずは意味を聞いてしまいますね。」
湯浅「“言葉”には意味がある。でも、それが言葉なのかそうじゃないのか、意味があるのか無いのかよく分からない領域があって、例えばオノマトペ(擬音語)だけで会話ができたらすごくいいなと思う時があります。」
めば「音だけで詩を書こうと思ったら、これから400~500年はかかるという話を聞いたことがあります。」
湯浅「物語性と意味作用はあんまりイコールになっていないほうが楽しいよ。デルタにはその中間領域が多めに入っているのかなと感じたけども。そうするとそれぞれの作家の別々の作品が繋がっていった時に三者三様の自問自答みたいなものがひとつになって見えてくる。3つの作品が形を変えてひとつの世界になってくる。この映画に限らず、そういう“分からない領域”というのをもっと感じてもらえると嬉しいね。」
(おわり)
「デルタ 小川国夫原作オムニバス」予告編
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